「ムーランルージュ」は「演出」が商品コアだという捉え方に対して、
では「ショーシャンクの空に」をどう捉えるか。
こちらについては、前々回、
、、、映画全体を経験した後に自分のこころに残る感覚がすばらしい映画。
と一言で表現してみた。
この映画を観たのも実は劇場ではなくて、ムーランルージュとほとんど同じようなシチュエーションで観たのだけれど、得たものは全く異なっていたのでした。
もちろん、映画を観ている間には十分その世界に浸っていて、わくわくもしたし飽きずに観ていられた。
だけどそれ以上に、観終わった後にこころに残った感覚のほうを今でも強く覚えている。それは言葉にすれば「人間が生きることって素晴らしいよなあ。自由に生きていられるってことだけで十分な価値がある。そして、前向きにあきらめずに希望を持って生きていくそのパワーというのはものすごい。」、、、なんて言葉が出てくる。
そんな僕にとって、この映画の価値は、そういう人間の力強さを人間独自の長所なのかもと再考しながら自由ということの人にとっての重要性を再認識できたこと。。。だったりする。
(くどいようですが、もちろんストーリーの素晴らしさ、クライマックスでのカタルシス、役者の演技のうまさ、、、など他にも十分な価値といえるものはある。そのうえで)
さてそのように価値をいったん決めた前提で「ショーシャンクの空に」の商品コアは「(上記のような)気づき」だったのではないかと考えられる。
商品コアの分類のなかに位置づけるならば「知る」ということに含まれるもの。そして「コアコンテンツ」はその点における「新しい(あらためて、といってもよい)視点」なのではないか。。。
前回触れなかったけれど、ムーランルージュのコアコンテンツは「浮世世界」に分けられると思っていて、そうするとこの二つの違いを下記のように整理できる。
ムーランルージュ:
商品コアの分類、、、「浸る」
コアコンテンツの分類、、、「浮世世界(物語)」
ショーシャンクの空に:
商品コアの分類、、、「知る」
コアコンテンツの分類、、、「新しい視点」
、、、ここでちょっと「映画を企画して作るとき」の視点に切り替えてみる。
おそらく作り手の意識(この映画を作ろうと思ったときの発端)の違いに準じて、このような異なるものが誕生したのだと思う。
そして作成過程においてそれがぶれなかった。
ぶれないだけのしっかりとした商品コアが、企画を意図したときから貫かれた。
だからこそ素晴らしいエンタテイメントになっているのではないかと考える。
素晴らしいといえるモノをつくる(つくられる)ときの、これは共通要素ではないだろうか。
そして、もうひとつ共通していると思うのは、
この2つの映画ともに、コアコンテンツはもちろん、それ以外のコンテンツとそれらコンテンツが生み出す価値とが高いレベルにあって、なおかつ構成された全体として質の高いものとなっていること。
そうであればこそ、この二つの映画は、商品コアが雑音にまぎれること無くストレートに、また受け入れやすいものになって最終的にユーザーに伝わる映画になった(結晶化された)のだろうと思う。
言葉がわかりにくくなってきたので整理すると、
素晴らしいエンタテイメントは、商品コアがしっかりしている。
素晴らしいエンタテイメントは、結晶としての全体を構成する各コンテンツがそれぞれ質が高い。
素晴らしいエンタテイメントは、各コンテンツがとても美しい結晶となるように構成されている。
なんてことを言いたかったわけです。
例として二つの映画を見てきていて、まず「商品コア」について考えてみました。
次回以降で、以前から少し触れている「人に勧める」というあたりをつついてみたいなと思います。